前に一度、警察から電話がかかってきたことがある。
警察にいって調書をとってもらったこともあるし、110番を何度もかけたこともあったが、自分の電話に間接的に、
「有永を警察が探している」
という連絡がくるのは初めてだった。
かかりつけの病院からだった。
ついに私は自分のあずかりしらぬところで無意識に悪いことをしてしまったようだった。
頭が真っ白になって、電話越しに「わたしやっちゃいましたか?」と尋ねると電話の向こうの看護師さんがけたけたと笑いながら
「落とし物だって! 有永さん、うちの診察券落としたみたい。誰かが交番に届けて、だからうちに電話がかかったきたの」
と教えてくれた。
一気に脱力した。なんだ、そうだったのか。私、まだ大丈夫だったのか。
連絡先を教えてもらい、私は警察に電話をかけた。
遺失物を管理する部署につないでもらい話を聞くと、いついつまでに本部まで何番と番号を申告して取りに来てほしいという。
たった一枚のペラッペラの紙でできた診察券に大仰な番号が発行されていた。(新宿の地下道で焦って対応したので色々記憶違いがあるかと思うが、全体的にはそんな感じだった)
数日後、私は市の警察本部の遺失物係へ行って番号を申告し、なにやら少しだけ名前を書いたりなどし、奥から大きなトレイに入った番号をつけられたちっぽけな診察券が運ばれてくるのを見た。
こんな小さなもののために。
と思った。
どこも踏まれたあとなどなく、いつもの診察券だった。
こんな紙切れ、踏みつけてゴミ箱へポイされてもよかったはずだった。
なのにすぐさま拾ってくれた人がいて、駅前の交番に届けてくれて、その交番の方が適切に遺失物届けとして処理をしてくれて、それが本部まで渡って、本部で丁重に番号がつけられて、診察券の裏側に表記された病院の電話番号に電話をしてくれた警察官の方がいて、電話をとってくれた顔見知りの看護師さんが私に電話をしてくれて……
こうして私の手元に何食わぬ顔で戻ってきたのだ。
大人になってから「お前は何に生かされているか」と聞かれたら、私は「人の善意」だと真っ先に答える。
私は大人になってよかったと思うことの一つが、「世の中はこんなに優しいんだと知れたこと」だった。
世の中は汚いよ、世の中は不平等だよ、世の中は悪意だよ。
そういう方もたくさんいらっしゃるかもしれない。
私にとっては、子供時代でそれらはお腹いっぱいだ。
自分の命や尊厳がおびやかされない今の大人である自分にほっとしているし、そういう悪意たちから距離をおいてくれる規律ある自立した周囲の友人知人仕事仲間は「大人」以外の何者でもなくて、「大人」とはかくも素晴らしきものだと本当にまぶしく思う。
また見も知らぬ、診察券を踏まぬどこかの「大人」の自律したたっとい魂を心から尊敬している。
彼らの善意に照らされて私は生きている。
もちろん私も今でもとんでもない悪意にエンカウントすることもあるが、それは「今わたしは善意に生かされている」という実感を揺るがすことにはつながらない。
私は大人になってからも「よく人間不信にならないね」と友人らに口々に言われるようなことに遭遇している。
99の褒め言葉より1の悪口のほうが強い、というような言葉はよく聞くし、私もそれは実にそのとおりだなと思うときもあるが、しかし結局はどう遠回りしても私の中で育った「善意」という実感が勝つのだ。どんなにへこもうがどんなに傷つけられようが、最終的に「人の善意」にどうやったって生かされてしまうのだ。(だからといってこれは私が「中傷される」のを是とする文章ではないのであしからずです。比較的リアルの対人関係の話などをしていますよ)
私にとって大人になって人からもらった「善意」というものは、少しずつ積み重なっていった分だけそれだけ強く、論破も破壊も難しいものなのだ。
私は自分が人に対して善意を向けることができているのかは分からない。
人にとって善き人間であろうという努力はここ数年やめてしまった。
ことさら善き友人であることもやめてしまった。それは病的な依存を深めるだけだし、互いのためにならないからだ。
もちろん大切な友人の相談はきくし、できることは最大限するし、何かあれば駆けつける。好きな友人には好きと伝えることも忘れない。
ただ、自分が行うとなると、善意とは何かわからない。
不特定多数の人に対しては。
席は譲ろうと努めている。目の前の落とし物は走って追いかけて届ける。重いものを持っている人がいたら階段で手を貸す。迷っている人がいたら声をかけるし、声をかけられたら時間の許す限り直接案内をする。
したくてしている。見返りは特にいらないしやったらすぐ忘れる。善意なのかはわからないし善意ではないと思う。
これは以前自分がしてもらってありがたかったから、世界にお返しをしている反復行動のようなものだ。
私は人から受けたものはすぐに「善意!」と分かる。ランプがついてあたたかな気持ちになる。
でも自分から発信するものは「なんだこれは?」とてんでわからない。
いただいた分だけお返しがしたいのだけどな、と思うのだけど。
「今自分は善意をしていますよ」
なんて分かっていてもおかしな話ではあるのだが。
これはもしかしたら一生わからないのかもしれない。
私がしたと思った善意が、もしかしたらものすごい邪悪である可能性だってある。コードギアスとカラマーゾフの兄弟が好きだから詳しいんだ私は(アニメとロシア文学は教養)。
私は今でも落とし物で戻ってきた診察券を使っている。
診察券を出すたびに、これがどれだけの人たちのリレーによって私の手元に再び戻ってきたかを知る。
どれだけの毎日働く人達の堅実な努力によって成り立った紙切れ一枚であるかを噛みしめる。
自分もこつこつと生きていかねばと思う。
だから「落とし物しないように」とまずそこから気をつけるようにした。
そう、そこからなのだ。
そそっかしいからね私は。