新宿に行った。
そこで4ヶ月ぶりに人の手を握った。
3月に行ってから一度も行っていなかったから、かれこれ3ヶ月ぶりの新宿だった。
私は学校がかつて新宿にあったから新宿が山手線の中では一番安心するところで、大きな買い物があるときは選ぶことも考えることもなく新宿ですませる。
たくさんのビル。たくさんの音。たくさんの人。
このご時世でも新宿という街は相変わらず広くて狭くてにぎやかだった。
そこでばったり、人に出会った。
どんな方なのかは先方に迷惑がかからないようぼやかすとして、ざっくりと言うと仕事関係のかたで、この自粛中に何度かビデオ通話もしたりして、でも実際にお会いしたことはなかった。
「会えたらいいですね、いつになるかな」
と画面越しにお互い笑っていた。
その日の新宿はどしゃぶりで、新しい靴に足がなじまない上に大きな水たまりを踏んでしまって私の気分はそこそこ最悪だった。
雨から避難するようにビルに入る。
お店が立ち並ぶビルの中も人は多くて、私はなるべく人との距離をあけながら久々の「にぎやか」を楽しんだ。
派手なPOPや控えめだけれど活気のあるいらっしゃいませに包まれて、世界が動いていることそのものがなんだか妙に嬉しかった。
雑踏の中ひとりの人とすれ違う。
一度すれ違って、なにかふと感じるものがあって振り向いたら、むこうも振り向いていた。
お互いマスクをしている。目だけが合う。
誰だっけ。
何かを考えるより先に、駆け寄ってお互い手を握りあった。
「やっと会えた」
と声がそろった。
ずっとビデオ通話越しに見ていた顔はマスクで半分も隠れていたけれど、すぐに分かった。向こうも分かったみたいだった。
会えた。しかもこんな偶然。広い新宿で。
ひとつ、あっ、と声が出た。
これは4ヶ月ぶりだ。
私は4ヶ月ぶりに人の手を握ったのだ。
social あるいは physical distancing を気にして、親しい人には一度も会わないことを選んだ3ヶ月半ほどだった。親しい人こそ会うわけにはいかないと思った。友人たちともビデオ通話で「会いたいね」と繰り返して笑うことしかできない時間だった。
そんな空白の時間を経て、とっさに何も考えることなく手を握りあった。
温かかった。そうだ手って血が通って温かいのだ、と思った。
妙に嬉しくて嬉しくて、「会えた、会えたね」と小声で絞り出すことしかできない。
文字でメッセージを交わすことも、ビデオ通話で顔を合わせて笑い合うことも、この一瞬の力強い握りあいには勝てなかった。
肉体を持つということはこういうことなのか、と泣くのを必死でこらえた。
一つ前のジャーナルで感じた「生きてる」と、先日新宿で感じた「生きてる」は全然違う種類のもので、後者のほうがより原始的で同時に電気信号を直接頭に流されたような「生きてる」だった。
まだ知らないことがたくさんある。
どんなにネットワークが発達しても勝てないものがあるし、同時に勝てるものもあったりする。それはその時その時のその人の考え方や時代の要請で変わってくるだろう。そういうことを私はまだ多くは知らない。
仕事つながりの直接会ったこともなかった方。
本来手を握りあう間柄ではなかったはずだ。
あのとき駆け寄ってお互い何も考えずに同時に手を握りあったのは、ネット上で繋がり合っていたバーチャルな部分の答え合わせをするような一瞬だった。
答え合わせ。多分そうなのかもしれない。
その人が本当に実在しているのか確かめたかったのかもしれない。
人が肉体を持って目の前にいるということ。
私が常々「生きてくれ」と強く願う理由がひとつ見つかった気がした。