怒れない

 怒れない。
 文字通り怒れない。
 怒りという感情を日本語で数年前に初めてまともに知った。
 ……というとなんだか中二病が治っていない感じがひしひしとするが、実際そういう人間は私の周りにごろごろいるので、一定数いなくはないのだと思う。

 
 例えばどういうふうに怒れないか。

 ケース1。
『道でわざとぶつかられたら』
 怒れない。
「痛い」「怖い」「悲しい」
「私が悪かったのかな」
 以上が私の気持ちだ。

 ケース2。
『なんの落ち度もないのに理不尽に怒鳴られたら』
 怒れない。
「怖い」「停止」「冷や汗が止まらない」
「私が悪いことをしたからだな」
 こうなる。

 ケース3。
『暴力をふるわれたら』
 怒れない。
「痛い」「怖い」「悲しい」
「私が悪いことをしてしまったのかもしれない」
 出ました最後の。お得意かよ~!

 
 この思考の癖があるとどうなるかと言うと、DV的素養のある人間がかぎつけて私をご機嫌にボコボコにしはじめるのである。
 精神肉体関係なく。こいつは殴ってもいい、と無意識に判断するのだ。
 すごいよね、DV素質人間。人を見極めて精神的に殴ってくるからね。外面はいいのだ。だから「あの人が?」って人ばっかりなのだ。

 私は殴られているあいだも殴られていることに気付かない。
「私が悪いことをしてしまったので、それ相応の強めのコミュニケーションをされているのだろう」
 と思うのだ。
 いやいやいやいやいや。悪いことって!?!?!
 してないからね、悪いこと。リストにしてみても悪いことしてないからね。大体において。
 でも自分では気付けない。

 こういう場合、
「私が悪かったから直さないとなんだけど、どうしよう」
 と相談すると、10人いたら10人の友人がみな大激怒する。先方に。
 そこで初めて私は、
「あれ? 私、もしかして何もしてなかった? というかしているのはもしかして向こう……?」
 と気付くのである。
 たまに「なんでそんなサンドバッグになるまで我慢した」とお説教をくらうこともある。よい友人を持った。すまない。

 私が悪いことをひとつしたとすれば、相手の落ち度を真っ先に「私のせいだ」と引き受けたことだ。
 相手の怒りや相手のいらだちや相手の都合を「私のせいです私が責任をとります」と請け負ったことだ。
 そしたら相手はしたい放題だよね。いい関係性とはいえないよな。

 この認知の歪みは私自身を幼い頃から致命的に殺してきた。
 どんな環境で育ったか、とか、そういうのはご想像におまかせするとして、つまりはそういうことだ。
 私の心は少しばかり妙な癖がついて歪んでいる。
 私は怒ることができない。
 殴られたらすぐに
「ああ!? お前どこ中だ!?」
 ができないのだ。

 
 ただし私の「怒り」は例外が2つだけある。
 人のために動くときと、英語を話すとき、だ。

 
 友人がサンドバッグのように言葉で殴られているのを見たとき、私は即点火する。
「てめ~~~ふざけんじゃねぇぞ表出ろ」
 とまではいかないが、頭がかーっとなって「●してやるぞお前」という気持ちにすぐなるし、友人の同意を得てから友人を下がらせて自分が代わりの窓口になる。
 かわりにサンドバッグになってあげるわけではない。
「サンドバッグになるのはお前だッッッッ!!!!」
 という勢いで相手へ一生分のマウントを取っていく。お前が今殴っていたテクニックを使って殴り返してやるからな、という気持ちで切れる手札を全部切って殴り返す。わめきちらしたり怒鳴ったりはしない。マウントってやつをひたすら静かにボードゲームのようにとれるだけとっていく。日々一切とらないものをここだけは逃さずとっていく。追い詰められろと思う。
 同じ土俵上等。友人には絶対立たせたくないし、むしろこのクソ野郎と同じ土俵に立って殴らせろ、それが私の仕事なんだよな~~~!!? って気持ち。
 終わったあとも必要とあらば友人の前で友人の代わりにとにかく怒る。
 自分のことでは何一つ怒れないのに、友人のことではたくさん怒る。
 これは友人思いなのではきっとない。
 私は人が傷ついているのを見ると、自分が傷ついているように感じる。単に利己的なのだ。
 ただ自分のケースでは「私が悪い」と処理してしまう殴られかたも、友人ならすぐに「友人は一ミリも悪くない!!!」と分かるしすぐに怒れる。不思議だ。

 
 またこれが英語だと同じように私は怒ることができる。
 実際に何かに直面したとき、
「なぜそのようなことをするのか」
「待ってくれ、落ち着いてほしい。私はとても恐怖している」
「あなたは私を脅かしている」
「ちょっと黙ってくれないか?」
 と自分のことを自分ですぐさま判断して主張できなくない。
 また友人にそのことを伝えるときは、
「ねえちょっと聞いてよ、こないだこんなことされたんだけど、あいつマジでピーーーーでピーーーーでピーーーーーーーーだったんだけど、ピーーーーーーーーーしたほうがピーーーでピーーーーじゃない??? 本当に怖かったし私にこういう理由で落ち度はないと考えるし、正直あいつの人生ピーーーがピーーーしてピーーーーーーーー」
 みたいなことを言えるのである。
 もちろん怒り狂うのは内省して「私に落ち度ないな……」と思ったときだけだ(突然なんの前触れもなく殴られたレベルのような事態)。
 とてもではないけれど日本人の友達にそのときの私の素行を見せられないような気がする。
 私は英語だと怒り狂う。
 大して上手くもない英語で。

 子供時代、怒りと自己主張のボキャブラリーだけは英語にだけ託されてしまったようだった。切り分けが行われたようだった。
 私は不幸にも、怒りやそしりの英語に多く囲まれて暮らした。
 美しく優しい英語に触れて暮らすことが少なかった(今やっと優しい英語に触れて暮らしているからたまに泣いてしまう)。
 怒鳴られたり嘲り笑われる中で私にむけられた英語は、皮肉なことに私のなかの「怒り」を表すための基礎となり素材となったのだ。

 
 怒れない。
 限定的にしか怒れない。
 英語の力を借りたり、友人のちからを借りたりして、少しずつ自分の中で「怒り」というものと付き合おうと最近はするようになってきた。
 少しずつだけど一部の友人にはゆっくりだけど「こないだこんなことがあって……」と日本語で怒りを表明することもできるようになってきた。
 怒らない人って穏やかでいい、なんて思うかもしれないけれど、「怒らない」のではなくて「怒れない」のだ。
 「食べない」のではなくて「食べられない」などと言い換えたりすれば、それが妙にいびつで不自然か少し分かっていただけるのではないかと思う。

 
 私が「怒れない」のと同じように「楽しめない」とか「悲しめない」とかそういう人もたくさんいるのではないかなと私は思っている。
 喜怒哀楽のどれかが欠けてもだめで、どれかが過剰でもだめで、きっとほとんどの人はそのバランスの中を荒い波の中で犬かきするように必死に泳いでいるのだ。
 こういうぶくぶくおぼれかけている人の中には、切っ先を誰か他の人に向けることをせず真っ先に「おぼれそうな私が悪い」という気持ちを持っている人が多いように思う。誰かを傷つけたりせず、真っ先に自分を刺して事を決着させようとする人が私の周囲には多すぎる。
 「これができないのは私が悪いから、これができなくて責められているのは私が悪いから」といったあんばいで。
 私はそんな方たちに自分のことを棚上げして言うけれど、

「あなたは悪くない」

 と強く強く言いたい。
 あなたは悪くない。
 これは私が友人たちから言われ続けた言葉の受け売りなのだけど。
 でも私もひとりのおぼれつつある人間として、信じてみる価値はあるように最近は思うのだ。
 もう自分が殺した自分の屍を見るのも、だいぶうんざりしてきたし。