画面越しのいのち

 先日はじめて「オンラインお茶会」というものをした。
 このご時世。
 自粛で外に出ることが出来ない。好きなときに好きな人達に会うことができない。顔を見ることができない。一緒にご飯を食べることもできない。
 多分2ヶ月前だったら友達とビデオ通話で顔つき合わせて話すなんて「勘弁」だったはずだ。
 家で部屋着姿のすっぴんが、何が悲しくて顔を見せなければならないのか。ちゃんとした服を着てメイクをして友達に会う。それが最低限のアレ。……だと思っていた。

 「オンラインお茶会」当日の私は一番ゆるい部屋着にすっぴんに長らく切れていないボサボサ髪、ベッドに寝そべって通話を開始した。なんて自堕落なんだろう。それが友達に会うかっこうか? と我ながら苦笑した。
 ビデオ通話が始まった。
 みんな各々すっぴんでゆるい部屋着で背景は生活感のある自宅だ。
「あっ来た!」
 と全員が声をあげた。
 それぞれの顔を見た瞬間胸にこみ上げるものがあった。

「みんな生きてる」

 と思った。

 
 人は何を持って「生きている」と感じるのだろう、とその時思った。
 Twitterのつぶやきを見て、彼女たちが生きていることは知っている。ちょこちょこ連絡もとっているから元気にやっていることも知っている。最近どうぶつの森にはまっていることなんかも知っているし、推しの萌えポイントなんかもちょいちょい知っているし、前日の夜ご飯なんかも把握している。
 生きていることなんて分かりきっているじゃないか。

 なのに顔を見て声を聞いた瞬間に「生きてる」と反射的に思ったのだ。
 顔と声が揃うことがすなわち生命の条件であるわけではない。
 もちろん顔と声は大切だった。複数人で会話をする上で相手の気持ちを読み取るのがとても容易だった。
 ただ、「生きている」ということそのものはもっと複雑だった。

 その場で好き勝手に動いて、どうでもいいことを話して、冗談を飛ばし合って、くだらないことで笑いが止まらなくなること。
 ずっと会いたいと思っていて、各々がこれまでお互いを生活の中で思い出していたことを吐露したり、そういえば聞きたかったんだけどと切り出したり、こんなことがあってねとか、今こんな状況でとか、自分の人生のかけらを共有し合うこと。
 表情と声色とタイミングで想いが交感していくこと。
 その現象そのものが「生きている」だと思った。
 

 ひとりはどうぶつの森をして、ひとりは筋トレや料理をして、わたしはお絵かきをして……おのおの話しながら好きな時間を3時間すごした。
「またこういう時間とろうよ」
 とみんなで約束した。

 
 世界は大きな転換期なのかもしれない。
 仕組みが、考え方が、あらゆるものの距離感や価値観が、ものすごい速さで変わっていっている瞬間なのかもしれない。それがこれからずっとなのか、一時的なものなのかは専門家ではない私にはわからない。
 けれども先日友人たちの顔を見たときに思った「生きてる」は私の中ではこの世界のひっくり返り方とはまったく無関係な、「あいかわらず」に近いこれまでの日常だった。大変ほっとした。(もちろんこういうことがなかったら、ビデオ通話なんて永遠に縁がなかったことなのだろうけど)

 世界がどんな仕組みになろうと、人間のプリミティブな気持ちのところは変わらないのだな、案外単純なものなのだな、と今回は少しだけはにかんでしまった。
 顔が画面に映った瞬間「あっ来た!」だもの。「映った」じゃなくて「来た」だからね。
 「来れて」よかった。
 是非また「来れ」たら。