お花見

 3月の終わりに花見に行った。
 ピクニックシートを持って友人と花見に行くのはおそらく生まれて初めてで、これまでの人生でまともに花見をしたことがなかった私は、すでにほぼ満開の桜が出迎える新宿御苑で
「桜があるなあ」
 という究極のゲシュタルト崩壊した感想を持つことになってしまった。
 ちょっとしたバカ。ディスイズアペンといい勝負の感想文ではないかと思う(ディスイズアペンのほうがそれが何であるかという謎を明らかにしているという点において、「桜があるなあ」よりずっと優秀なセンテンスな気がするけども)。

 桜の写真を撮る友人らの写真を撮り、芝アレルギーなのにがんばって芝の上でくつろごうとする友人に笑い、1人のかぶっていた帽子をひょいと拝借して自分でかぶってみて「びっくりした」と笑いながら振り向かれたり、英語と韓国語と日本語がめちゃくちゃにまざって大笑いしたり(今回のメンツはいつもの多国籍グループだった)、まだ寒さの残る中みんなで「さむいさむい」と言いながらアイスを食べたりした。
 友人たちの一挙一動をこれほど覚えて楽しんだにも関わらず、私の桜への感想は
「桜があるなあ」
 につきて、これは世間一般では「花の粋が分からないやつ」という枠に入るのだろう。
 「桜があるなあ」は私にとっては花への最大限の賛辞であるのだけど、旬ですよと咲き誇ってくれている桜にとっては相当物足りないうえにズレにズレた言葉ではある。(そこにいるなあ、ずっといるんだなあすごいなあ、きっと来年も再来年も変わらずいるんだなあ、という気持ちをこめて思うのだけれど、語彙力があまりにも貧困で桜に申し訳なくなる)

 私は人間が好きだ。
 花が綺麗だ、うれしいな、と思って笑う人間が好きだ。
 花より団子というけれど私は団子にも興味があまりなくて、とすると「花より団子より人間」ということとなり、もはや花見というよりは「人間見」と呼んだ方が正確かもしれない。
 3月の終わりに”人間見”に行った。
 これかも。
 いや、これかもじゃないわ。気持ち悪いわ。
 前言撤回。やっぱりお花見です。人間愛しい、こみでのお花見です。
 まあでも全人類だって、人と会うためにお花見行ってるとこあるじゃん?(ないじゃん)
 人間は結局なんとなく誰か(人間)が好き。なのだと思う。

 帰ってカメラロールを見返すと、桜の写真を撮る友人たちの写真ばかりがそこにあって笑ってしまった。
 彼女たちの横顔を縁取る桜はたいそう美しい。
 次はちゃんと「お花見」したいなと写真越しにうっとりするほどの満開だった。
 来年こそ「お花見」できる自分にアップグレードされていますように。乞うご期待。