明晰夢から目覚める時

 あまりしたことのない自己紹介をしてみようかなと思う。

 生まれつきの金縛り体質で夢見体質だ。

 どれくらいかというと入院をして精密検査をし、脳波を見た専門医に「なにこれ……」とつい本音をもらされるレベルだ。
 見る夢の4~6割程度が明晰夢で(明晰夢がわからない人はぐぐってください)、自分で金縛りと明晰夢を起こそうと思えば起こせるくらいは慣れている。
 したがって私は一晩に最低一度は鮮明な夢を見る。
 人間、寝ているときに夢は見ているが覚えていないだけ、という話だから、厳密に言えば私は「きわめて夢を覚えていやすい体質」なのだと思う。

 よく「夢の中でも仕事してたよ~、でも起きたら仕事に使えるしろものではなかった」という話をひとから聞くけれど、それはおそらく完全な明晰夢ではないからじゃないかなと思う。
 私は明晰夢になったら少しビルとビルのあいだを飛んだり、部屋の本を読んだり、ゼロから物を召喚(ありふれているが空飛ぶホウキと食べ物が好きだ)して遊んでから、普通に仕事をすることがたまにある。
 大体はパソコンやノートに向かってプロットやネームをすることが多く、やりながら、
「これ覚えておかないとな……現実までは持っていけないからな」
 と大事なところは何度も確認しながら作業する。
 明晰夢のなかで考えたことを現実まで持っていくのは、脳が地続きといえどなかなかどうして骨が折れる事なのだ。

 ここまで読んで、
「こいつなにいってるんだ? 新手の、こう、やばい、スピリでチュアルなアレか? 中の2の病が治ってないのか?」
 とお思いの方も多いかと思いますが、残念ながら私は「夢を減らす薬」を飲む程度にはこれが日常であり、きわめて現実的な話をしている。
 明晰夢は寝ながらにして脳だけが部分覚醒して「これは夢である」と自覚できている夢のことだ。
 なので「仕事をしよう!」と思えば脳は普段の自分なので、全然仕事ができてしまう。
 自室でパソコンに向かってプロットを書く。夢の中で。
 肉体的な疲れをほとんど感じないので、黙々と作業する。夢の中で。
 どうしても思いつかないところで行き詰まり寝っ転がる。夢の中で。
 内容のクオリティは夢の中でも大して変わらない(同じ脳だからね)。成果物を現実に持っていけないので、物理的なログが残らないことを除けば。

「夢の中でも仕事できるなんて便利じゃん!」
 と言われたことがあるけれど、仕事をしているあいだ脳は眠らないので、起きたときは当然寝不足だ。
 身体は休んでいたはずなのに、脳が眠たくて眠たくてたまらない。徹夜したも同然なのだからさもありなんという感じではあるが。
 なので最近は明晰夢で仕事をするのは「どうしても現実で仕事が進まない時」に限っている。
 起きたらただちに内容を声に出して繰り返し反芻しながら、iPhoneあるいはPCを立ち上げて、覚えている限りのものを箇条書きにしていく。夢だからといって独創的なものが生まれるわけではなく、普通の仕事の延長線上にある私にとっては平凡な作業のひとつだ(眠いけどね)。

 なお「夢を減らす薬」というのは厳密には存在しないけれど、私は医者と協力してあらゆる薬を試してみて、メンタルや睡眠とは関係ない疾患の薬でたまたまその効果が出たので「夢を減らす薬」と呼んでいる(おそらくなにが「夢を減らす薬」になるかは全員違う。人によっては花粉症の薬かもしれないし)。
 飲まないと時には一晩に金縛り&3~5個の夢を「覚えてしまう」ことになる。朝目覚めた瞬間に、すでにたくさんの整頓されきっていない物語や情報が頭を埋め尽くしている状態になり、頭の中は疲労と混乱でいっぱい。幼い頃はこれで朝が本当につらかった。
 私は自分の体質を病気だとは思っていないが、身体に物理的な負担がかかるのでそれが軽減されるにこしたことはない。
 10代の頃は薬もノウハウもなかったので、ずいぶん身体に負担がかかっていたなと思う。
 サンキュー現代医学。

 また「精神と時の部屋」のように、夢での体感1時間が現実だと1分、みたいなステキなことは起こらない。
 現実時間と明晰夢時間はなんとなく同じくらい……というのが私の実感だ。なので仕事をする時間も限られてくるし、そんなに長くはない。集中力はものすごいんだけど。
 たまに明晰夢時間のほうが異常に長いときもあるけれど、そのときは体調がすぐれないときかつ、金縛りとまざって明晰夢を自然に脱出できないときなので、少しセコい手をつかって無理やり脱出する。
 小さい頃からのノウハウで大体のことは把握しているし対処できる。

 ただ明晰夢で本当に怖いのは
「これは夢なのか現実なのか……」
と分からなくなること。
 私は自分が夢にいるときに確認するいくつかのサインを小さい頃から持っていて、そのいくつかのサインをクリアしていたら「明晰夢だ」と判断してやっと動くことにしている。ほとんどの明晰夢は簡単に判断がつくが、たまに「しるし」が見つからず、
「これは夢でなく起きているのではないか……でも夢を見ているような実感はある……どうしよう、今自分はどこにいるんだろう……」
 と本気で不安になる強力な明晰夢を見るときがある。
 フィクションの中ではありがちな展開かもしれないけれど、私にとってはしばしば本当に直面する困りごとで、大人になった今でもそれは現実的な悩みだ。
 困ったときの「現実か夢か」の確認方法はイチかバチかの少しショッキングなやりかたなので、またいつか機会があるときにでもお話できたらと思う。

 ところでクリストファー・ノーランの『インセプション』という夢に関する映画があるけれど、あれは本当にガチの夢見の人が作ったか、綿密な取材や研究のたまものなのではと思う。
 ノーラン寝てる? 大丈夫? 夢見体質? と見終わったあと海の向こうの彼にタメ口で話しかけてしまった。友達かよ。
 夢に対する構造や感覚・実感が桁違いで「そうそう!」となる上に、映画の中に出てくる「コマ」こそ私も持っている「しるし」と同質のものだ。
 『インセプション』を「あるある映画」だと思っている人間はそういないと思うけど、みんな『インセプション』面白いのでぜひ見てくださいこの通り。
(あと、押井守『イノセンス』のバトーさんのループするところもかなり好き。めっちゃわかる。守護天使)

 たまにふと
「今こうしていることも『夢』だったらどうしよう」
 と思うことがある。
 決してロマンチスト的あるいはフィロソフィカルな発想ではなく、むしろ切実な「自分が現実に存在しますように」という実際的な祈りだ。
 そのときは「しるし」を確認してひとまず「起きてるみたい」と安堵するのだけれど、実は何度か「起きてると確信してしまった明晰夢」を見てしまっている。
 だから結局のところ私は「私は起きている」と断言することができず、きわめて消極的に、
「おそらく今は夢ではないかもしれない」
 と言うことしかできないのだ。
 このジャーナルの記事だって実は半分ほど明晰夢の中で思いついて文章を考えた。
 そういうことだ。
 夢と現実が生来地続きすぎるがゆえに、私は毎日びくびくしながら足元をたしかめるように「起きて」いる。

 
 いつか夢のことを作品に描くことがあれば、この記事を思い出してフフッとなっていただければ幸いです。