仏像と空間と祈りと

 奈良が好きだ。
 厳密には奈良時代が好きだ。
 更に厳密に言えば天平文化が好きだ。
 そしてそれらを擁している奈良の地が大好きだ。

 けれども私は奈良に詳しくない。

 
 私は大学で電卓や数字とにらめっこすることがままあるものを専攻していたが、大学が前のめりに学びたい人間にとって非常に柔軟だった(と感じられた)ため、学部の垣根なく色々な分野の授業を受けることができた。
 ロシアやドイツ文学はもちろん、インド映画の授業も受けていたし(当時バーフバリがあればな)、何より豊富な仏教美術の講義や研修に他学部であるにも関わらず参加させてもらえた。
 仏教系の大学ではないのに、仏教美術に強く(専用のCTスキャンみたいのも持ってた)それなりの寺の子が意外と進学してくる学校だったため、講義やゼミは私以外みんなお寺関係者ということも少なくなかった。
 実際に宝物殿のキャプションを書くレベルの教授たちと行った研修で、先輩方と天平仏を見上げながら涙したことは今でも忘れられない。
(教授方はキャプションの解釈違いに文句を言いながらも1時間同じ仏像の前で「何度見ても実にいいよね」と談笑されていて本当に楽しそうだった)

 閑話休題。
 奈良が好きだ。
 歴史には詳しくない。専門性も特に持ち合わせていない。
 もちろん仏像を見たら
「菩薩だな」
「菩薩じゃないな」
「四天王・十二神将・十大弟子・眷属だな」
「あれは天平あたりで、あれは平安、あれは鎌倉仏あたりだな」
「半跏思惟だな」
「玉眼だな」
「あの寺にはあの仏像が、この寺にはこの仏教美術があるな」
「密教ってこんな感じだな」
「◯◯観音はこれを持ってるな」
「この人はあの寺が好きそうだな」

 ……などと分かるが、それはテレビを見ていて「これはあの事務所のアイドルで、これはあのドラマに出ていた俳優だと分かる」レベルのことであり、専門性となると専攻していた方達には顔向けできる水準ではなく、てんで駄目だ。
 また熱心な仏教徒というわけでも当然なく、お葬式でゆるく「うちは……あそこだっけ?」とわかる程度の仏教徒。私はむしろ宗教学の中でも聖書学を主に学んでいたし、比較宗教学の観点から、つまり聖書(イエス個人)や西洋的視点から、仏教というものを眺めることの方が多かった。

 つまりど素人なのだ。

 ど素人が天平仏と奈良を愛しているのだ。
 怒られてしまう。誰にかは知らないが怒られてしまう。そう10代前半からぼんやりと思っている。
 でもそれでいいとも思っている。
 ど素人に許された「開き直る」という特権だ。

 

 祈りの場が好きだ。
 宗教的な祈りであるか否かは限定はしない。
 老若男女、あらゆる価値観の人間があらゆる思惑で
「わざわざ仏像なるものを見に遠方からやって来、金銭を投げ、手を合わせる」
 というまったく同じことをする。
 それを私はざっくばらんに「祈り」という名前で呼んでいる。

 「祈り」は観光寺として栄えている寺であろうと、奥まった場所にあるしんとした静謐な寺であろうと変わらず起こっていることだ。
 祈りの場は物理的な場であると同時に現象だ。
 「本尊」というものを軸として価値と価値がすれ違い続ける「出来事」そのものだ。
 そういった価値が交錯し、人々の上下のない祈りの場は宴の場と似ている。イエスが好んだのは宴の場だし、ミハイル・バフチンの「カーニバル性」という言葉も思い起こされる(多分シッダールタもこの意味での宴の場好きだよね知らんけど)(いい加減なこと言うな)。
 その宴の様相を呈している出来事を一身にその身に受ける「仏像」という存在を、私はこよなく愛している。
 どんな価値観であってもどんな思惑であっても全て受け止め続けてきたという事実は、もはやどんな奇跡や教えよりも宗教性が高いのではないかと思う。
 天平仏ともなればおよそ1300年ほども、価値観の違う人間たちの交錯の軸となってきた。
 古い仏像は、存在そのものが衆生を見守り救済を望む仏教の教えそのものを体現しているのではないかなと、会いに行くたびにふと思うことがあるのだ。

 

 2019年5月31日、遅ればせながら滑り込みで『東寺展』へ行ってきた。
(奈良が好きだって始まりなのに京都のお寺の話ですみません。書いてる途中に行ったものだから……)

 立体曼荼羅(二次元に書かれている仏様たちのフォーメーションを三次元の仏像に作り直して表した大天才の大アイディア)が個々に離されて展示され、360度ぐるり見ることができるという。
 以前の薬師寺・日光月光さんが東京に来た際もそうだったが、なんといっても「お背中」を見ることができるのはたまらないものがある。
 ふだんお堂の中で同じ場所・同じ向きでじっとされている仏像さんたちであるので、背中を見ることができるのは大方スーパーレアというわけだ。
 私は京都のお寺さんの中では東寺の立体曼荼羅がいっとう好きで、さして大きくない講堂にぎゅっとつめこまれた仏像たちの宇宙は本当に計算されているものだと感じるし、
「二次元でしか見たことなかったものが三次元にいる! 会いにこれちゃった!」
 みたいな感慨がどのお寺よりもおしよせてくる。
 きっと昔のひともGロッソとかディズニーランドのショーに行って「本物がいる! 会いにこれちゃった!」みたいな気持ちを抱いていたんじゃないかなあと想像すると、完全に空海プロデューサーの掌の上だなあという感じがする(俗っぽいたとえ話ですみません)。
 ちなみにもうひとつそう感じるところがあるのですが、それは新薬師寺です。
 あのフォーメーションは一体誰がいつ考えだしたの。行くたびに「ああ~~~!!!今世紀も覇権!!!(?)」と思う。バチあたりですみません。でもはやくアニメ化してほしい。は?

 何がいいたいのかというと、仏像のフォーメーションは大事ということです(そんなこと言ってなかったろ)。
 空海が東寺の立体曼荼羅のフォーメーションをすごく丁寧に考えてくれたことは、東寺に行って実際に見たことのある方なら肌感覚でお分かりになられると思う。
 曼荼羅自体のフォーメーションが丁寧だもんで立体も丁寧でしかるべきなのだけど、制約も多い中で本当によくここまで美しい調和した世界をつくってくれたなあといつも講堂に入るたびに思う。
 立体曼荼羅は講堂という入れ物の中で完結する無限の「宇宙」。
 建物そのものがひとつのパッケージであり物語なのだと私は思っている。

 今回の東寺展はフォーメーションにある程度準じてはいたものの、おひとりおひとりが遠く離されて、全員ぐるりと回り込めるだけのスペースが用意されていた。
 それは普段見ることのできない各々のお背中や邪鬼を見ることができ、本当にありがたく価値があることだった。私も夢中で見てしまった。
 ただしこれは私の場合「美術品」として見ているのだ。

 
 観光寺であるにせよ、ゆるい仏教徒であるにせよ、寺では人々が仏像の前で手をあわせているのを目にすることが多い(そうしないよって方はそうしないでオーケーで、私がよく目にするって話だからね)。
 賽銭を投げて、あるいは投げなくとも手を合わせて見上げたり、目を閉じたり、会釈したり、意外とカジュアルに「よっす」みたいな感覚でみんな手を合わせているように見える。私は
「どうもこんにちは。また会いに来ました。相変わらず最高にお顔が美しいですね。モテすぎてませんか? いつもお疲れ様です。今超テンションあがってます」
 のご報告も兼ねて手を合わせている。顔は褒めたいやっぱり(俗人)。
 そして一方、展示で手を合わせている人を見ることは私の観測範囲ではなかった。私も手を合わせることはなかった。
 なぜなら展示は「祈りの場」ではないからだ。
 「美術に会いに行き愛でる場」であって、「ご利益のありそうな何かに会いに来る場で」はない。もちろん祈りに来た方も少なからずいらっしゃったと思うが、その割合は仏像たちが寺にいるときとは段違いで少ないだろう。
 撮影がOKだった帝釈天さんへカメラを向けている雰囲気も「めったに撮れない美術品が撮れる!」の雰囲気だった。

 ひとつ語弊がないように言っておくけれど、私は仏像が美術品として見られることにNOだとか嫌だとか思うことはない。自分も今回は「美術品」として鑑賞したし、「美術品」として写真を撮った。
 場が違うだけでこんなにも「祈られるもの」が「美術品」にかんたんに変わってしまうものなのか、と驚いたのだ。
 場は大切だ。空間は大切で、その中でのフォーメーションは大切で、それ次第でモノは意味合いを大きく変える。
 私はお寺の中で、あらゆる人たちが「わざわざ行って」「なんとなく」(かもしれず)手をあわせ続けて1000年以上たっている仏像たちを愛している。ときには宗教とは程遠いかもしれない祈りの場を愛している。細かな場所は移動しても、大体はその地で人々を見守ってきた仏像が今も人々と対面を果たしているという不思議な構造を愛している。
 展示もそうじゃないかと言われたら「そうですね」と答えるしかないし、「手を合わせる」ことがないことを除けばさして違いはないのだろう。
 もちろん展示の場も本当に楽しかった。本当にたくさんの人が真剣にキャプションを読んで、オーディオを聞き、じっと法具や仏像をながめる。「観光でなんとなく来たからなんとなく見る」とは全然違う真剣さがそこにはあって、「みんな~!!!! 楽しいね!!!!」と思わず拡声器で叫びたくなったほどだった。
 もう難しいこと全部おいといて、両方いい。
 両方いいんである。
 仏像はいい。最高。天才。みんな見てくれ。

 
 今ふと思ったが、展示でもしそれぞれの仏像の前に賽銭箱が置かれていたら、たちまちそこは「祈りの場」に変わっていたかもしれない。
 祈るためにもきっかけや理由、切り替えが必要だったりするものだ。
 普段は個々にお賽銭を投げられないから、お寺にいるときよりより「祈り」が強くなるのではないかなと思うとそれはそれで面白いなと思う。

 
 私はど素人だ。
 学校のカリキュラムと海外移住の兼ね合いでまともに日本史を履修したことがなく、例えば「バクマツ」周辺の知識は『るろうに剣心』と『銀魂』と『幕末ROCK』と『龍馬伝』あたりからしか得たことがないトンデモレベルのバクマツリテラシーの持ち主だ。さすがに志士たちや新選組が楽器片手に雷舞(ライブ)しないということは『龍馬伝』を見たので知っている(……のだが、どんどん雷舞してくれててもいいんだけどな)(?)。
 そのレベルで歴史に関しても仏教美術に関してもど素人で、ど素人ゆえに感想文を書くとこうしてとっちらかったものとなってしまう。
 けれども見続けてきたなりに思うことはたくさんあり、今回も東寺展を見て自分の中の「仏像観」みたいなものを改めて考えることとなった。

 私の教わった教授方がどの先生も経歴のある方だったにもかかわらず、みな仏像を前にすると
「いい顔してるねやっぱり!」
「ポーズがかっこいいね!」
「このひとはイケメンってやつなんだよね!」
「あっちとこっちで戦わせたいね!」
「邪鬼かわいい!」
「やった~! 脱乾漆だ~!!」
 とこどものように無邪気な感想ではしゃがれて、「どんな見方をしてくれてもいいよ、楽しいよ」とずっと姿勢そのもので示し続けてくれたことに、今更ながら感謝しかない。

 通底する「楽しいままでいいよ」を持ちながら、お寺にいらっしゃる仏像さんたちとどう出会い続け奈良(や京都)を愛していくかは私のライフワークなんである。